2012年1月5日の毎日新聞より2012年01月06日 09:45

毎日新聞 2012年1月5日 東京夕刊

特集ワイド:日本よ!悲しみを越えて 作家・池澤夏樹さん

 <この国はどこへ行こうとしているのか>

 ◇流されるな、論理持て--池澤夏樹さん(66)
 「地理的条件が国の歴史を作るのです」。作家、池澤夏樹さんは静かに、しかし、よどみなく語り始めた。

 「日本の場合、島国であること。それも大海にある遠い島などではなく、大陸と一衣帯水の島。だから文明や人、技術は大陸から伝わったが、軍勢は海を渡って来られなかった。異民族支配を知らずに済んだ。思えばこの国は、実にうまくできた国土なのです。ただし、この地理的条件ゆえに、災害も多い」

 ギリシャ、沖縄、フランスと移り住んできた池澤さんは今、北海道・札幌に暮らす。常に外からの視点で、日本という国を前後左右、斜めから見つめてきた。だからだろう。地政学の講義のような池澤さんの語り口を聞いていると、かなたの宇宙船からこの島国を見下ろしている気分になる。その宇宙船は、どこか“着地点”をまっすぐ目指している、そんな感じ……。

 「災害が多いのは、大陸プレートと海洋プレートの境界線の上に位置しているから。つまり大陸の縁にあるこの島国は、それゆえ火山の噴火や地震、津波が多かった。災害と復興こそが、この国の歴史の主軸なのです」

 繰り返される天災が、国民性を形づくった、という。

 「日本人は自然と対決することを避け、むしろ絡み合うように生きてきた。勝てる相手ではないから。災害のたび、多くを失い、泣き、脱力し、そしてしばらくすると立ち上がり、再び作り上げた。江戸時代、大火を何度も体験しながら、燃えない石の家をつくろうとせず、紙と木の家を建て続けた。火事も天災と受け止めていたのでしょう。問題は、人が意志を持って行った結果である人災すら、天災と同じように受け止め、災害の責任追及をうやむやにしがちなことです」

 <天>ではなく、<人>の出した火も、天災のように受け止めてきたこの国。2011年3月11日、津波と福島第1原発の暴走を前に私たちは、天災と人災とをどこまで区別できたのか--。ここが宇宙船の“着地点”だ。

 池澤さんは言う。「原発事故を天災と受け止めた人は少なくなかった。東電は『想定外』という言葉で、人災ではなく天災、と問題をすり替えようとした。今回ばかりは日本人も随分と抗議し、責任追及している。しかし頭で『想定外』を否定しながらも、心のどこかで『大変な津波だったんだから仕方ない』とあきらめてはいないか。それを乗り越えるには論理の力が必要です」

 論理がないから、私たちは流されてしまう。思えば過去にも。「第二次大戦で負けた時に似ています。日本人は政策決定者の責任を追及する前に『一億総ざんげ』してしまった。アイヌや沖縄人、朝鮮半島から来た人たちを無視し、単一民族国家と言い募り、その一体感で『お父さん』の責任追及より『家族みんなで団結を』と問題をすり替えた。震災後、正直いうと僕はうんざりでした。『みんなで頑張ろう』だの『絆』だの……」

 池澤さんがふいにみせた憤りと、「絆」という言葉との不釣り合いさに、ドキリとした。震災後、人々が見いだし、あるいは求めた人と人の絆は、我々の希望ではなかったのか。

 「確かに今回はみんな、よく東北を助けました。ボランティアの動きも早かった」と前置きした後、こう続けた。「しかし、絆は『縛り』にもなるからね」

 池澤さんは例を挙げた。たとえば、1000人の被災者がいる避難所で、300人分の食料支援を「全員に行き渡らないと不公平だから」と断った避難所。ようやく電気が復旧したのに、隣家が停電中と知って気が引けて電灯をつけなかった人々。絆を重んじるがあまり、個人の大切なものをないがしろにしなかったか。

 「稲作に由来する集団主義。隣組的などうかつ、異物排除……。東日本大震災の後、東北だけでなく、日本全体が『向こう三軒両隣主義』にさらされた。ひっそり暮らさねば、と」

 思わず「自粛」や「被災地を考え、我慢しろ」という言葉が思い出された。

 「さらに原発事故で対立軸が生じた。逃げるか逃げないか。『逃げられる人はいいね』とある人は言い、『子どもがいるから必死』と別の人は言った。地震や原発事故は、絆を結ぶと同時に、分断する力でもあったのです」

 今、池澤さんは「脱原発」を掲げ、執筆や講演活動を続けている。「原子力は人間の手に負えません。国土は国の基本なのに、日本のまん中に何十年も住めない国土をつくってしまった。福島の人は全国各地に避難している。ディアスポラ、流浪の民を生んでしまった。大きな罪です」

 「除染? 世の中の毒は焼けば消失しますが、放射性物質は違う。取り除けないのだから『除染』ではなく『移染』。そんなものを大気に、海に放出し、国際社会においても罪を犯してしまった」

 日本にいる者で、責任の外にある者などいない、と明言する。だからこそ、「日本が本当に変わっていく転機としなければならない」とも。

 長く外国に暮らし、各国を旅してきた作家は今、しみじみという。「東日本大震災の日、日本に住んでいて良かった」と。それはなぜ?

 「外国にいたら抽象的な考え方にとどまっていたでしょうから。僕はこれまで、知らない土地に暮らし、言葉を覚え、その地の文化を徐々に理解することが面白くて仕方なかった。でも今回は違う。僕は東北という土地に取り付かれてしまったんです。頭からどうしても離れない。毎月のように通っています。ただ復興を見届けなければ、と思うのです」

 近著「春を恨んだりはしない」の最後に書いている。東北で多くの人々が唐突に逝った。残された者は、それに付き添えなかった悔恨を共有し、それでも先に向かって歩いて行かねばならない、と。

 <その先に希望はあるか?

  もちろんある。>

 池澤さんは同書の中で続ける。「希望はあるか、と問う我々が生きてここにあることがその証左だ」と。だから最後の質問は、インタビューの前から決めていた。「東北で希望は見いだせましたか」

 池澤さんは一瞬の迷いもなく、きっぱりと答えてくれた。「ええ。見つかりますよ」

 それは例えば、被災し、仮設住宅に暮らす理髪店の青年。津波で父親を亡くしたその人は、池澤さんの髪を切りながらこう言ったそうだ。

 「うちなんか運がいいほうです。手に職があるしね。被災地にいても、人の髪の毛は伸びるから」
【小国綾子】

 ■人物略歴

 ◇いけざわ・なつき
 1945年北海道帯広市生まれ。「スティル・ライフ」で芥川賞など受賞多数。近著は「春を恨んだりはしない 震災をめぐって考えたこと」。