2012年1月5日の毎日新聞より2012年01月06日 09:45

毎日新聞 2012年1月5日 東京夕刊

特集ワイド:日本よ!悲しみを越えて 作家・池澤夏樹さん

 <この国はどこへ行こうとしているのか>

 ◇流されるな、論理持て--池澤夏樹さん(66)
 「地理的条件が国の歴史を作るのです」。作家、池澤夏樹さんは静かに、しかし、よどみなく語り始めた。

 「日本の場合、島国であること。それも大海にある遠い島などではなく、大陸と一衣帯水の島。だから文明や人、技術は大陸から伝わったが、軍勢は海を渡って来られなかった。異民族支配を知らずに済んだ。思えばこの国は、実にうまくできた国土なのです。ただし、この地理的条件ゆえに、災害も多い」

 ギリシャ、沖縄、フランスと移り住んできた池澤さんは今、北海道・札幌に暮らす。常に外からの視点で、日本という国を前後左右、斜めから見つめてきた。だからだろう。地政学の講義のような池澤さんの語り口を聞いていると、かなたの宇宙船からこの島国を見下ろしている気分になる。その宇宙船は、どこか“着地点”をまっすぐ目指している、そんな感じ……。

 「災害が多いのは、大陸プレートと海洋プレートの境界線の上に位置しているから。つまり大陸の縁にあるこの島国は、それゆえ火山の噴火や地震、津波が多かった。災害と復興こそが、この国の歴史の主軸なのです」

 繰り返される天災が、国民性を形づくった、という。

 「日本人は自然と対決することを避け、むしろ絡み合うように生きてきた。勝てる相手ではないから。災害のたび、多くを失い、泣き、脱力し、そしてしばらくすると立ち上がり、再び作り上げた。江戸時代、大火を何度も体験しながら、燃えない石の家をつくろうとせず、紙と木の家を建て続けた。火事も天災と受け止めていたのでしょう。問題は、人が意志を持って行った結果である人災すら、天災と同じように受け止め、災害の責任追及をうやむやにしがちなことです」

 <天>ではなく、<人>の出した火も、天災のように受け止めてきたこの国。2011年3月11日、津波と福島第1原発の暴走を前に私たちは、天災と人災とをどこまで区別できたのか--。ここが宇宙船の“着地点”だ。

 池澤さんは言う。「原発事故を天災と受け止めた人は少なくなかった。東電は『想定外』という言葉で、人災ではなく天災、と問題をすり替えようとした。今回ばかりは日本人も随分と抗議し、責任追及している。しかし頭で『想定外』を否定しながらも、心のどこかで『大変な津波だったんだから仕方ない』とあきらめてはいないか。それを乗り越えるには論理の力が必要です」

 論理がないから、私たちは流されてしまう。思えば過去にも。「第二次大戦で負けた時に似ています。日本人は政策決定者の責任を追及する前に『一億総ざんげ』してしまった。アイヌや沖縄人、朝鮮半島から来た人たちを無視し、単一民族国家と言い募り、その一体感で『お父さん』の責任追及より『家族みんなで団結を』と問題をすり替えた。震災後、正直いうと僕はうんざりでした。『みんなで頑張ろう』だの『絆』だの……」

 池澤さんがふいにみせた憤りと、「絆」という言葉との不釣り合いさに、ドキリとした。震災後、人々が見いだし、あるいは求めた人と人の絆は、我々の希望ではなかったのか。

 「確かに今回はみんな、よく東北を助けました。ボランティアの動きも早かった」と前置きした後、こう続けた。「しかし、絆は『縛り』にもなるからね」

 池澤さんは例を挙げた。たとえば、1000人の被災者がいる避難所で、300人分の食料支援を「全員に行き渡らないと不公平だから」と断った避難所。ようやく電気が復旧したのに、隣家が停電中と知って気が引けて電灯をつけなかった人々。絆を重んじるがあまり、個人の大切なものをないがしろにしなかったか。

 「稲作に由来する集団主義。隣組的などうかつ、異物排除……。東日本大震災の後、東北だけでなく、日本全体が『向こう三軒両隣主義』にさらされた。ひっそり暮らさねば、と」

 思わず「自粛」や「被災地を考え、我慢しろ」という言葉が思い出された。

 「さらに原発事故で対立軸が生じた。逃げるか逃げないか。『逃げられる人はいいね』とある人は言い、『子どもがいるから必死』と別の人は言った。地震や原発事故は、絆を結ぶと同時に、分断する力でもあったのです」

 今、池澤さんは「脱原発」を掲げ、執筆や講演活動を続けている。「原子力は人間の手に負えません。国土は国の基本なのに、日本のまん中に何十年も住めない国土をつくってしまった。福島の人は全国各地に避難している。ディアスポラ、流浪の民を生んでしまった。大きな罪です」

 「除染? 世の中の毒は焼けば消失しますが、放射性物質は違う。取り除けないのだから『除染』ではなく『移染』。そんなものを大気に、海に放出し、国際社会においても罪を犯してしまった」

 日本にいる者で、責任の外にある者などいない、と明言する。だからこそ、「日本が本当に変わっていく転機としなければならない」とも。

 長く外国に暮らし、各国を旅してきた作家は今、しみじみという。「東日本大震災の日、日本に住んでいて良かった」と。それはなぜ?

 「外国にいたら抽象的な考え方にとどまっていたでしょうから。僕はこれまで、知らない土地に暮らし、言葉を覚え、その地の文化を徐々に理解することが面白くて仕方なかった。でも今回は違う。僕は東北という土地に取り付かれてしまったんです。頭からどうしても離れない。毎月のように通っています。ただ復興を見届けなければ、と思うのです」

 近著「春を恨んだりはしない」の最後に書いている。東北で多くの人々が唐突に逝った。残された者は、それに付き添えなかった悔恨を共有し、それでも先に向かって歩いて行かねばならない、と。

 <その先に希望はあるか?

  もちろんある。>

 池澤さんは同書の中で続ける。「希望はあるか、と問う我々が生きてここにあることがその証左だ」と。だから最後の質問は、インタビューの前から決めていた。「東北で希望は見いだせましたか」

 池澤さんは一瞬の迷いもなく、きっぱりと答えてくれた。「ええ。見つかりますよ」

 それは例えば、被災し、仮設住宅に暮らす理髪店の青年。津波で父親を亡くしたその人は、池澤さんの髪を切りながらこう言ったそうだ。

 「うちなんか運がいいほうです。手に職があるしね。被災地にいても、人の髪の毛は伸びるから」
【小国綾子】

 ■人物略歴

 ◇いけざわ・なつき
 1945年北海道帯広市生まれ。「スティル・ライフ」で芥川賞など受賞多数。近著は「春を恨んだりはしない 震災をめぐって考えたこと」。

新聞は載せられなくなりました2011年10月31日 19:07

朝日新聞社から指摘されてしまいました。
残念ですが仕方がないです。

放射性物質に狙い撃ちされた村飯舘村の悲劇(前篇)2011年10月11日 11:34

自分たちの住まいに放射性物質が到来していることを知らされなかった6000人の村民と、海岸部から飯舘村に避難していた1300人が被曝してしまった。いま村からはチェルノブイリ周辺に匹敵する土壌汚染や、プルトニウムすら見つかっている。結局、全村民は避難。村は「無人」になってしまった。それでも「立入禁止」ではない。

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村上春樹さん:カタルーニャ国際賞スピーチ原稿全文2011年06月11日 10:57

「非現実的な夢想家として」

 僕がこの前バルセロナを訪れたのは二年前の春のことです。サイン会を開いたとき、驚くほどたくさんの読者が集まってくれました。長い列ができて、一時間半かけてもサインしきれないくらいでした。どうしてそんなに時間がかかったかというと、たくさんの女性の読者たちが僕にキスを求めたからです。それで手間取ってしまった。

 僕はこれまで世界のいろんな都市でサイン会を開きましたが、女性読者にキスを求められたのは、世界でこのバルセロナだけです。それひとつをとっても、バルセロナがどれほど素晴らしい都市であるかがわかります。この長い歴史と高い文化を持つ美しい街に、もう一度戻ってくることができて、とても幸福に思います。

 でも残念なことではありますが、今日はキスの話ではなく、もう少し深刻な話をしなくてはなりません。

 ご存じのように、去る3月11日午後2時46分に日本の東北地方を巨大な地震が襲いました。地球の自転が僅かに速まり、一日が百万分の1.8秒短くなるほどの規模の地震でした。

 地震そのものの被害も甚大でしたが、その後襲ってきた津波はすさまじい爪痕を残しました。場所によっては津波は39メートルの高さにまで達しました。39メートルといえば、普通のビルの10階まで駆け上っても助からないことになります。海岸近くにいた人々は逃げ切れず、二万四千人近くが犠牲になり、そのうちの九千人近くが行方不明のままです。堤防を乗り越えて襲ってきた大波にさらわれ、未だに遺体も見つかっていません。おそらく多くの方々は冷たい海の底に沈んでいるのでしょう。そのことを思うと、もし自分がその立場になっていたらと想像すると、胸が締めつけられます。生き残った人々も、その多くが家族や友人を失い、家や財産を失い、コミュニティーを失い、生活の基盤を失いました。根こそぎ消え失せた集落もあります。生きる希望そのものをむしり取られた人々も数多くおられたはずです。

 日本人であるということは、どうやら多くの自然災害とともに生きていくことを意味しているようです。日本の国土の大部分は、夏から秋にかけて、台風の通り道になっています。毎年必ず大きな被害が出て、多くの人命が失われます。各地で活発な火山活動があります。そしてもちろん地震があります。日本列島はアジア大陸の東の隅に、四つの巨大なプレートの上に乗っかるような、危なっかしいかっこうで位置しています。我々は言うなれば、地震の巣の上で生活を営んでいるようなものです。

 台風がやってくる日にちや道筋はある程度わかりますが、地震については予測がつきません。ただひとつわかっているのは、これで終りではなく、別の大地震が近い将来、間違いなくやってくるということです。おそらくこの20年か30年のあいだに、東京周辺の地域を、マグニチュード8クラスの大型地震が襲うだろうと、多くの学者が予測しています。それは十年後かもしれないし、あるいは明日の午後かもしれません。もし東京のような密集した巨大都市を、直下型の地震が襲ったら、それがどれほどの被害をもたらすことになるのか、正確なところは誰にもわかりません。

 にもかかわらず、東京都内だけで千三百万人の人々が今も「普通の」日々の生活を送っています。人々は相変わらず満員電車に乗って通勤し、高層ビルで働いています。今回の地震のあと、東京の人口が減ったという話は耳にしていません。

 なぜか?あなたはそう尋ねるかもしれません。どうしてそんな恐ろしい場所で、それほど多くの人が当たり前に生活していられるのか?恐怖で頭がおかしくなってしまわないのか、と。

 日本語には無常(mujo)という言葉があります。いつまでも続く状態=常なる状態はひとつとしてない、ということです。この世に生まれたあらゆるものはやがて消滅し、すべてはとどまることなく変移し続ける。永遠の安定とか、依って頼るべき不変不滅のものなどどこにもない。これは仏教から来ている世界観ですが、この「無常」という考え方は、宗教とは少し違った脈絡で、日本人の精神性に強く焼き付けられ、民族的メンタリティーとして、古代からほとんど変わることなく引き継がれてきました。

 「すべてはただ過ぎ去っていく」という視点は、いわばあきらめの世界観です。人が自然の流れに逆らっても所詮は無駄だ、という考え方です。しかし日本人はそのようなあきらめの中に、むしろ積極的に美のあり方を見出してきました。

 自然についていえば、我々は春になれば桜を、夏には蛍を、秋になれば紅葉を愛でます。それも集団的に、習慣的に、そうするのがほとんど自明のことであるかのように、熱心にそれらを観賞します。桜の名所、蛍の名所、紅葉の名所は、その季節になれば混み合い、ホテルの予約をとることもむずかしくなります。

 どうしてか?

 桜も蛍も紅葉も、ほんの僅かな時間のうちにその美しさを失ってしまうからです。我々はそのいっときの栄光を目撃するために、遠くまで足を運びます。そしてそれらがただ美しいばかりでなく、目の前で儚く散り、小さな灯りを失い、鮮やかな色を奪われていくことを確認し、むしろほっとするのです。美しさの盛りが通り過ぎ、消え失せていくことに、かえって安心を見出すのです。

 そのような精神性に、果たして自然災害が影響を及ぼしているかどうか、僕にはわかりません。しかし我々が次々に押し寄せる自然災害を乗り越え、ある意味では「仕方ないもの」として受け入れ、被害を集団的に克服するかたちで生き続けてきたのは確かなところです。あるいはその体験は、我々の美意識にも影響を及ぼしたかもしれません。

 今回の大地震で、ほぼすべての日本人は激しいショックを受けましたし、普段から地震に馴れている我々でさえ、その被害の規模の大きさに、今なおたじろいでいます。無力感を抱き、国家の将来に不安さえ感じています。

 でも結局のところ、我々は精神を再編成し、復興に向けて立ち上がっていくでしょう。それについて、僕はあまり心配してはいません。我々はそうやって長い歴史を生き抜いてきた民族なのです。いつまでもショックにへたりこんでいるわけにはいかない。壊れた家屋は建て直せますし、崩れた道路は修復できます。

 結局のところ、我々はこの地球という惑星に勝手に間借りしているわけです。どうかここに住んで下さいと地球に頼まれたわけじゃない。少し揺れたからといって、文句を言うこともできません。ときどき揺れるということが地球の属性のひとつなのだから。好むと好まざるとにかかわらず、そのような自然と共存していくしかありません。

 ここで僕が語りたいのは、建物や道路とは違って、簡単には修復できないものごとについてです。それはたとえば倫理であり、たとえば規範です。それらはかたちを持つ物体ではありません。いったん損なわれてしまえば、簡単に元通りにはできません。機械が用意され、人手が集まり、資材さえ揃えばすぐに拵えられる、というものではないからです。

 僕が語っているのは、具体的に言えば、福島の原子力発電所のことです。

 みなさんもおそらくご存じのように、福島で地震と津波の被害にあった六基の原子炉のうち、少なくとも三基は、修復されないまま、いまだに周辺に放射能を撒き散らしています。メルトダウンがあり、まわりの土壌は汚染され、おそらくはかなりの濃度の放射能を含んだ排水が、近海に流されています。風がそれを広範囲に運びます。

 十万に及ぶ数の人々が、原子力発電所の周辺地域から立ち退きを余儀なくされました。畑や牧場や工場や商店街や港湾は、無人のまま放棄されています。そこに住んでいた人々はもう二度と、その地に戻れないかもしれません。その被害は日本ばかりではなく、まことに申し訳ないのですが、近隣諸国に及ぶことにもなりそうです。

 なぜこのような悲惨な事態がもたらされたのか、その原因はほぼ明らかです。原子力発電所を建設した人々が、これほど大きな津波の到来を想定していなかったためです。何人かの専門家は、かつて同じ規模の大津波がこの地方を襲ったことを指摘し、安全基準の見直しを求めていたのですが、電力会社はそれを真剣には取り上げなかった。なぜなら、何百年かに一度あるかないかという大津波のために、大金を投資するのは、営利企業の歓迎するところではなかったからです。

 また原子力発電所の安全対策を厳しく管理するべき政府も、原子力政策を推し進めるために、その安全基準のレベルを下げていた節が見受けられます。

 我々はそのような事情を調査し、もし過ちがあったなら、明らかにしなくてはなりません。その過ちのために、少なくとも十万を超える数の人々が、土地を捨て、生活を変えることを余儀なくされたのです。我々は腹を立てなくてはならない。当然のことです。

 日本人はなぜか、もともとあまり腹を立てない民族です。我慢することには長けているけれど、感情を爆発させるのはそれほど得意ではない。そういうところはあるいは、バルセロナ市民とは少し違っているかもしれません。でも今回は、さすがの日本国民も真剣に腹を立てることでしょう。

 しかしそれと同時に我々は、そのような歪んだ構造の存在をこれまで許してきた、あるいは黙認してきた我々自身をも、糾弾しなくてはならないでしょう。今回の事態は、我々の倫理や規範に深くかかわる問題であるからです。

 ご存じのように、我々日本人は歴史上唯一、核爆弾を投下された経験を持つ国民です。1945年8月、広島と長崎という二つの都市に、米軍の爆撃機によって原子爆弾が投下され、合わせて20万を超す人命が失われました。死者のほとんどが非武装の一般市民でした。しかしここでは、その是非を問うことはしません。

 僕がここで言いたいのは、爆撃直後の20万の死者だけではなく、生き残った人の多くがその後、放射能被曝の症状に苦しみながら、時間をかけて亡くなっていったということです。核爆弾がどれほど破壊的なものであり、放射能がこの世界に、人間の身に、どれほど深い傷跡を残すものかを、我々はそれらの人々の犠牲の上に学んだのです。

 戦後の日本の歩みには二つの大きな根幹がありました。ひとつは経済の復興であり、もうひとつは戦争行為の放棄です。どのようなことがあっても二度と武力を行使することはしない、経済的に豊かになること、そして平和を希求すること、その二つが日本という国家の新しい指針となりました。

 広島にある原爆死没者慰霊碑にはこのような言葉が刻まれています。

 「安らかに眠って下さい。過ちは繰り返しませんから」

 素晴らしい言葉です。我々は被害者であると同時に、加害者でもある。そこにはそういう意味がこめられています。核という圧倒的な力の前では、我々は誰しも被害者であり、また加害者でもあるのです。その力の脅威にさらされているという点においては、我々はすべて被害者でありますし、その力を引き出したという点においては、またその力の行使を防げなかったという点においては、我々はすべて加害者でもあります。

 そして原爆投下から66年が経過した今、福島第一発電所は、三カ月にわたって放射能をまき散らし、周辺の土壌や海や空気を汚染し続けています。それをいつどのようにして止められるのか、まだ誰にもわかっていません。これは我々日本人が歴史上体験する、二度目の大きな核の被害ですが、今回は誰かに爆弾を落とされたわけではありません。我々日本人自身がそのお膳立てをし、自らの手で過ちを犯し、我々自身の国土を損ない、我々自身の生活を破壊しているのです。

 何故そんなことになったのか?戦後長いあいだ我々が抱き続けてきた核に対する拒否感は、いったいどこに消えてしまったのでしょう?我々が一貫して求めていた平和で豊かな社会は、何によって損なわれ、歪められてしまったのでしょう?

 理由は簡単です。「効率」です。

 原子炉は効率が良い発電システムであると、電力会社は主張します。つまり利益が上がるシステムであるわけです。また日本政府は、とくにオイルショック以降、原油供給の安定性に疑問を持ち、原子力発電を国策として推し進めるようになりました。電力会社は膨大な金を宣伝費としてばらまき、メディアを買収し、原子力発電はどこまでも安全だという幻想を国民に植え付けてきました。

 そして気がついたときには、日本の発電量の約30パーセントが原子力発電によってまかなわれるようになっていました。国民がよく知らないうちに、地震の多い狭い島国の日本が、世界で三番目に原発の多い国になっていたのです。

 そうなるともうあと戻りはできません。既成事実がつくられてしまったわけです。原子力発電に危惧を抱く人々に対しては「じゃああなたは電気が足りなくてもいいんですね」という脅しのような質問が向けられます。国民の間にも「原発に頼るのも、まあ仕方ないか」という気分が広がります。高温多湿の日本で、夏場にエアコンが使えなくなるのは、ほとんど拷問に等しいからです。原発に疑問を呈する人々には、「非現実的な夢想家」というレッテルが貼られていきます。

 そのようにして我々はここにいます。効率的であったはずの原子炉は、今や地獄の蓋を開けてしまったかのような、無惨な状態に陥っています。それが現実です。

 原子力発電を推進する人々の主張した「現実を見なさい」という現実とは、実は現実でもなんでもなく、ただの表面的な「便宜」に過ぎなかった。それを彼らは「現実」という言葉に置き換え、論理をすり替えていたのです。

 それは日本が長年にわたって誇ってきた「技術力」神話の崩壊であると同時に、そのような「すり替え」を許してきた、我々日本人の倫理と規範の敗北でもありました。我々は電力会社を非難し、政府を非難します。それは当然のことであり、必要なことです。しかし同時に、我々は自らをも告発しなくてはなりません。我々は被害者であると同時に、加害者でもあるのです。そのことを厳しく見つめなおさなくてはなりません。そうしないことには、またどこかで同じ失敗が繰り返されるでしょう。

 「安らかに眠って下さい。過ちは繰り返しませんから」

 我々はもう一度その言葉を心に刻まなくてはなりません。

 ロバート・オッペンハイマー博士は第二次世界大戦中、原爆開発の中心になった人ですが、彼は原子爆弾が広島と長崎に与えた惨状を知り、大きなショックを受けました。そしてトルーマン大統領に向かってこう言ったそうです。

 「大統領、私の両手は血にまみれています」

 トルーマン大統領はきれいに折り畳まれた白いハンカチをポケットから取り出し、言いました。「これで拭きたまえ」

 しかし言うまでもなく、それだけの血をぬぐえる清潔なハンカチなど、この世界のどこを探してもありません。

 我々日本人は核に対する「ノー」を叫び続けるべきだった。それが僕の意見です。

 我々は技術力を結集し、持てる叡智を結集し、社会資本を注ぎ込み、原子力発電に代わる有効なエネルギー開発を、国家レベルで追求すべきだったのです。たとえ世界中が「原子力ほど効率の良いエネルギーはない。それを使わない日本人は馬鹿だ」とあざ笑ったとしても、我々は原爆体験によって植え付けられた、核に対するアレルギーを、妥協することなく持ち続けるべきだった。核を使わないエネルギーの開発を、日本の戦後の歩みの、中心命題に据えるべきだったのです。

 それは広島と長崎で亡くなった多くの犠牲者に対する、我々の集合的責任の取り方となったはずです。日本にはそのような骨太の倫理と規範が、そして社会的メッセージが必要だった。それは我々日本人が世界に真に貢献できる、大きな機会となったはずです。しかし急速な経済発展の途上で、「効率」という安易な基準に流され、その大事な道筋を我々は見失ってしまったのです。

 前にも述べましたように、いかに悲惨で深刻なものであれ、我々は自然災害の被害を乗り越えていくことができます。またそれを克服することによって、人の精神がより強く、深いものになる場合もあります。我々はなんとかそれをなし遂げるでしょう。

 壊れた道路や建物を再建するのは、それを専門とする人々の仕事になります。しかし損なわれた倫理や規範の再生を試みるとき、それは我々全員の仕事になります。我々は死者を悼み、災害に苦しむ人々を思いやり、彼らが受けた痛みや、負った傷を無駄にするまいという自然な気持ちから、その作業に取りかかります。それは素朴で黙々とした、忍耐を必要とする手仕事になるはずです。晴れた春の朝、ひとつの村の人々が揃って畑に出て、土地を耕し、種を蒔くように、みんなで力を合わせてその作業を進めなくてはなりません。一人ひとりがそれぞれにできるかたちで、しかし心をひとつにして。

 その大がかりな集合作業には、言葉を専門とする我々=職業的作家たちが進んで関われる部分があるはずです。我々は新しい倫理や規範と、新しい言葉とを連結させなくてはなりません。そして生き生きとした新しい物語を、そこに芽生えさせ、立ち上げてなくてはなりません。それは我々が共有できる物語であるはずです。それは畑の種蒔き歌のように、人々を励ます律動を持つ物語であるはずです。我々はかつて、まさにそのようにして、戦争によって焦土と化した日本を再建してきました。その原点に、我々は再び立ち戻らなくてはならないでしょう。

 最初にも述べましたように、我々は「無常(mujo)」という移ろいゆく儚い世界に生きています。生まれた生命はただ移ろい、やがて例外なく滅びていきます。大きな自然の力の前では、人は無力です。そのような儚さの認識は、日本文化の基本的イデアのひとつになっています。しかしそれと同時に、滅びたものに対する敬意と、そのような危機に満ちた脆い世界にありながら、それでもなお生き生きと生き続けることへの静かな決意、そういった前向きの精神性も我々には具わっているはずです。

 僕の作品がカタルーニャの人々に評価され、このような立派な賞をいただけたことを、誇りに思います。我々は住んでいる場所も遠く離れていますし、話す言葉も違います。依って立つ文化も異なっています。しかしなおかつそれと同時に、我々は同じような問題を背負い、同じような悲しみと喜びを抱えた、世界市民同士でもあります。だからこそ、日本人の作家が書いた物語が何冊もカタルーニャ語に翻訳され、人々の手に取られることにもなるのです。僕はそのように、同じひとつの物語を皆さんと分かち合えることを嬉しく思います。夢を見ることは小説家の仕事です。しかし我々にとってより大事な仕事は、人々とその夢を分かち合うことです。その分かち合いの感覚なしに、小説家であることはできません。

 カタルーニャの人々がこれまでの歴史の中で、多くの苦難を乗り越え、ある時期には苛酷な目に遭いながらも、力強く生き続け、豊かな文化を護ってきたことを僕は知っています。我々のあいだには、分かち合えることがきっと数多くあるはずです。

 日本で、このカタルーニャで、あなた方や私たちが等しく「非現実的な夢想家」になることができたら、そのような国境や文化を超えて開かれた「精神のコミュニティー」を形作ることができたら、どんなに素敵だろうと思います。それこそがこの近年、様々な深刻な災害や、悲惨きわまりないテロルを通過してきた我々の、再生への出発点になるのではないかと、僕は考えます。我々は夢を見ることを恐れてはなりません。そして我々の足取りを、「効率」や「便宜」という名前を持つ災厄の犬たちに追いつかせてはなりません。我々は力強い足取りで前に進んでいく「非現実的な夢想家」でなくてはならないのです。人はいつか死んで、消えていきます。しかしhumanityは残ります。それはいつまでも受け継がれていくものです。我々はまず、その力を信じるものでなくてはなりません。

 最後になりますが、今回の賞金は、地震の被害と、原子力発電所事故の被害にあった人々に、義援金として寄付させていただきたいと思います。そのような機会を与えてくださったカタルーニャの人々と、ジャナラリター・デ・カタルーニャのみなさんに深く感謝します。そして先日のロルカの地震の犠牲になられたみなさんにも、深い哀悼の意を表したいと思います。(バルセロナ共同)

毎日新聞 2011年6月10日 19時00分(最終更新 6月10日 19時09分)

連休おしまい2006年05月07日 21:05

今日で長かった連休もおしまいだ。 今年は9連休の人も多かったようだが、うちの息子も9連休だった。 本当は昨日は学校があったんだけど、風邪で休んだので連休が続いちゃった。ま、昨日は親睦キックベース大会だったから休んでも平気だったんだ。

この連休はお葬式2回が続いて始まって、望月の家の草刈りをしにあわただしく一泊で行って来て、そのついでに2年前から佐久に住み始めた従姉妹の家にも遊びに行き、帰ってきた翌日は息子がクラブで逗子に出掛けた。私は近所で独りで虫の観察。翌日は早起きして鎌倉の弟宅に遊びに行く予定が寝坊したため8時半出発になり、第3京浜から横横まで続く大渋滞に巻き込まれた。帰ってきたら息子は風邪を引いたのか調子が悪く、土曜日に診療再開するのを待ってお医者さん。私は息子の学校PTAの役の引き継ぎで土曜日は昼から学校行き。そのまま夕方から打ち上げに突入。 いろいろ忙しくおもしろい連休であったなぁ。

アサブロ開設2006年04月12日 09:16

いつの間にかアサヒネットでもブログが出来るようになってたのでとりあえず開設してみた。 使いやすいかな?